Gallery -皐月-《忘れられた場所》

《忘れられた場所》

 

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《忘れられた場所・部分》

 

「忘れられた場所」

今年は例年よりも早く新緑の輝きに眼を奪われました。
我が家の南側に位置する雑木林の大半は常緑樹ですが、
3本ほど大きな落葉樹があります。
それらは11月に紅葉し、
12月に落葉した後しばらくは裸木として変化に富んだ枝ぶりを見せ、
再び5月に若々しい新緑の葉をまとうのです。
年末の数度にわたる落ち葉拾いは大変ですが、
このような自然のサイクルを身近に見られるのはちょっとした贅沢に思えますし、
力強い再生の姿から元気をもらうこともあります。
ところが、新緑の瑞々しい若葉が一人前の葉に成長するのはとても速く、
もう少し幼い姿を楽しみたいのにすぐ大人になってしまう子猫の成長にも似ています。
逆に言えばその短い時期に、かけがえのない魅力が凝縮されているのです。

大阪芸大に籍を移して最初の1ヶ月が過ぎました。
忙しくも充実した時間が過ごせ、これからの5年間に希望が湧いてきました。
岡山大学での最後の5年が「終わりの5年」だとすれば、
大阪芸大でのこれからの5年は「始まりの5年」であるという気がしてきました。
何かをまとめようというよりは、何かにチャレンジしてみようという心境の変化です。
そこには「まだまだ私はやれる。もうひと花咲かせたい。」
という野心も当然あります。

そんなことを考えていたら、尾形光琳の《紅白梅図》屏風のことを思い出しました。
光琳は《紅白梅図》の画面の両端に紅梅と白梅を描いていますが、
向かって右側の紅梅は若木で、左側の白梅は老木なのです。
そしてこの2本の梅の木は互いに反発しあっているようにも、
求め合っているようにも見えます。
私の解釈では、この2本は元々一体だったもので、
画面からはみ出た部分の形を互いに補い合っています。
そしてこの2本を擬人化するならば、
晩年の光琳(白梅)が若き日の自分(紅梅)に対して、
「若い頃は元気だった。しかしまだまだやれる。もうひと花咲かせるぞ!」と宣言しているように見えるのです。

実は私の絵の中にもこの絵によく似た構成の絵があります。
それが今月の絵《忘れられた場所》です。
岡山大学のキャンパスのはずれにあるひなびた場所の5月の風景です。
かつて日本陸軍が使っていたといわれる煉瓦造りの古い建物と空き地に立つ3本の樹が描かれています。
テーマは「自然と人工」、「不変と変化」の対照です。
右端の樹は常緑針葉樹、左の2本が落葉樹で、まさに新緑の若葉を茂らせた姿です。
形と大きさから左端の樹が若木で、中央寄りの樹が老木と分かります。
これを描いた16年前に意識したわけではありませんが、
この2本の樹の構成は光琳の紅梅と白梅の関係と似ています。

私の絵でも2本の樹は寄り添っているようにも、
反発し合っているようにも見えませんか。
そして共通点がもうひとつ。
それは光琳が中央に配した水流で「時の流れ」を暗示しているように、
私の絵の古い建物も、
まさに「過ぎゆく時」の象徴に他ならないのです。
このように描いた時には気付かなかった絵の構成に、
後で気付くということもあるのです。
私はこの古い建物の人工物としての不変性に魅力を感じたので、
当時煉瓦の一枚一枚の表情を執拗に描いたことを思い出しました。
その辺りを部分図で見ていただけたら幸いです。

泉谷 淑夫

 

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