Gallery -長月-《光降る場所》

《光降る場所》

《光降る場所》

 

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「光降る場所」

何年か前の個展会場で、
並べられた絵を見ながら、
私の教え子が「先生の絵の魅力は光ですよね」とつぶやいた。

そう言われて自分の画業を振り返ると、
内容的な主題の違いに関わらず、
どの絵でもずっと光の表現を追求してきた自分がいたことに気付いた。
教え子は続けて「21世紀のフェルメールを目指してください」と言って笑っていたが、
風景画で「フェルメール」を追求するのも面白そうだなと思った。

思えば光は生命の源であり、
西洋の神話では、
神が最初に「光あれ!」という言葉を発して、
この世界が誕生したことになっている。

絵の世界でも、
多くの画家が、
そして鑑賞者が絵に光を求めてきた歴史がある。
それは、
人々が絵に生命感を求めてきた証とも言えるだろう。

当然、現代に生きる我々も「光」が大好きである。
だからこそ、
カラヴァッジョやフェルメール、
モネやルノワールの絵が、
今でももてはやされるのである。

このことに気付いて以来、
私も自分なりに光の美しさを捉えたいと、
より強く願うようになった。

西洋画の光の表現には大きく分けて二つある。

一つはカラヴァッジョが始めた対比明暗法で、
これはテネブリズム(闇の様式)とも呼ばれ、
17世紀前半の西洋画壇を席巻した。

もう一つは有名な印象派の光の表現で、
こちらはモネがその旗手で、
筆触分割と補色対比を使って、
野外の光を追い求めた。

大きな違いは、
前者は光源が人工照明中心で、
暗部が画面の多くを占め、
タッチを用いていないのに対し、

後者は光源が太陽光で、
陰影部に補色が使われるため、
画面全体が明るく、
タッチが用いられていることである。

私はどちらの表現も好きで、
羊や猫を月の光で描く時には前者の手法を、
光あふれる自然の風景を描く時には、
後者の手法を参考にしている。

ただし、私の用いるタッチは、
印象派のものよりも細かいが、
かといって新印象派のような点描とも異なる。
あくまで自分の感覚に素直なタッチで、
自然の息づかいが感じられるようなものを心がけている。

私の絵は一見写真的に見えるが、
画面に近づくと細かいタッチが目に入ってきて、
最初の印象と変わるのである。
そのタッチは自然の生命感を伝える上で、
欠かすことはできない。

そんな私が、残暑厳しい9月のある日、
日常生活の中で、
素晴らしい光の光景に出会ったことがある。

勤務している大学の3階の美術教室の窓から、
何気なく見なれた景色に眼をやった時のことである。

その部屋からは構内を走る道路と樹々に囲まれた公園のような景色が眺められたが、
その日の強い陽射しの魔術で、
毎日のように見ているその景色が、
何か別世界の「光の楽園」のように見えたのである。

それほどその樹々や地面に降り注ぐ光のシャワーは強烈であった。

急いでカメラを取りに行き、
窓から見えるその光景を何枚かの写真に収めた。
それを元に、その時の強烈な印象を描きとめたのが、
今月の一枚である。

題して《光降る場所》、
画面から溢れんばかりの光が主役である。

この絵を見た人の多くは、描かれた場所が森のようなところだと勘違いする。
画面の下を、道路すれすれのところでカットして、
森の一角に見えるように構図を操作しているからでもある。
この絵のポイントは、樹々を見降ろすという俯瞰した視点にある。
通常、風景を描く時には得られない視点である。
これによって人間ではない存在を暗示することができたように思う。

光は空から皆に平等に降り注ぐものでもある。
そして誰でも常に光を浴びたいと願うが、
必ずしも神様は平等ではない。
往々にして限られたものたちに強烈な光を当てて、
輝かせることが好きである。

私は見なれた樹々に、
光のシャワーを浴びせることで、
光を渇望する自分の思いを、
この時吐き出したのだろうか。 

泉谷 淑夫

 

 

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