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「渇く」
5月になりました。奈義町現代美術館では私の個展が始まりました。
そしてもうすぐG.Wがやってきます。
4月は雨の日がかなり続いたので、これからはスカッと晴れてほしいと思っている人も多いのではないでしょうか。
しかし晴れの日が続いて気温も上がってくると、のどが渇いてくるのが人間というもの。
駅などの自動販売機の飲料も、HOTからCOOLへと一斉に切り替わり、これからは冷たい飲み物の季節がしばらく続くというわけです。
そこで今回はズバリ《渇く》という変わった題の絵を紹介します。
《渇く》は1988年に描かれたS80号の作品です。羊たちが大作に登場する直前の絵で、
羊群の代わりに電球頭のサラリーマンが大勢登場しています。
ずらっと並んだ自動販売機の前に佇み、缶入り飲料を手にする男たち。
出勤前の光景でしょうか。
空に向かって高い電柱が伸び、その先には監視カメラや警報機が付いています。
強い陽射しがアスファルトの地面に影を落とし、潰された空き缶がひとつ、何かを叫んでいるようにも見えます。
ほとんど色らしい色のない無味乾燥な光景なので、《渇く》と題しました。
電球頭の男は1980年代の私のメインモチーフで、
デ・キリコがよく描いたマヌカンの変奏です。
デ・キリコの形而上絵画は、高校時代からの私の指標です。
最初は風景の中に小さく登場していたのですが、
一陽賞を受賞した《旅行者》辺りから、大きく描かれるようになりました。
電球は割れやすく、切れやすく、とても脆弱です。
そこで人間が人間性を失ってしまった状態の形象として使ったのです。
ちなみに私の頭部を後ろから見るとシルエットが電球の形に似ているので、
自虐的な「自画像」なのかもしれません(笑)。
この絵を見た知り合いの画家がエンデの『モモ』に出てくる「灰色の男たち」を思い出したとコメントしたので、
早速『モモ』を読んでみました。
なるほどよく似ていました。
『モモ』の物語の中では、人間の世界から時間やゆとりを奪い去る「灰色の男たち」。
違いがあるとすれば、私の描く「電球頭の男たち」は、時間やゆとりを奪い取られた人間なのです。
もちろん彼らは管理社会の中で機械の歯車のように扱われる現代人の暗喩です。
ですから消耗してフィラメントが切れた状態の電球頭を描くこともあります。
このようなストレートな表現をしばらく続けていた後、
私は『羊たちの寓話世界』へと転換していくのですが、
外観上はともかく、
この二つの世界は精神的にはつながっています。
現代人を羊の群れに置き換えることで、
私は現実の状況にメルヘンの衣をまとわせたのです。
そうすることで私の絵を見る人が、
ワンクッション置いて今の世の中に思いを馳せてくれたらと願うのです。
人間の自由が少しずつ少しずつ狭められているように感じる今日この頃だからこそ、
せめて絵で自由な表現を追求していきたいと思います。
泉谷 淑夫