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「春の小道」
私は時間があると時々車に乗って風景取材に行きます。
といっても遠出するのは稀で、たいがいは住んでいる家の周辺です。
昔から絵に描きたくなるような場所の近くに住みたいという気持ちが強いため、
どうしても住むところは田舎になってしまいます。
樹々がそびえる小高い丘や、
舗装されていない曲がりくねった道、
雑木林を映す静かな水辺等々を求めて、
ゆっくり車を走らせていると、
不思議とそんな風景に出会えるのです。
今月の一枚は、そんな風にして見つけた「ありそうでなさそうな風景」です。
3月は花粉症の私にとってはあまりテンションの上がらない季節ですが、
昨年は花粉の飛散量が少なかったこともあって、
寒さが和らいだ日にちょっと出かけてみました。
以前絵に描いたことのある近くの池を久しぶりに見たくなったからです。
そこは本当に家の近くなのですが、
普段は通らないコース沿いにあるので、
近くてもめったに行かない場所でもあるのです。
ルートがちょっと違うだけで、
私にとっては精神的に「遠い」感じの特別な場所と言えます。
そのせいか、そこに行く時間がとても貴重に思えるのです。
以前にこの場所で描いたのは、池の水面に竹藪の折れた竹が数本、
身の半分ほど浸かっている光景でした。
この時もその状態はほとんど変わらずにあって、
時が止まっているような不思議な感じがしたものです。
その状態に変化があれば、
またそれを描いたかもしれませんが、
変わってなかったので、別の場所を探しました。
カメラを持ってその近くをあてもなく歩いていると、
ふと私の眼に一体の道祖神が入ってきました。
道祖神のある風景はこれまでも何回か描いているので、
期待して周囲の状況を確かめました。
私の期待は裏切られませんでした。
道祖神の傍を細い道が続いていて、
奥の雑木林の所で消えていました。
一人で歩いても狭いくらいの道ですから、
当然舗装はされていません。
近年は山奥まで農作業用の軽トラが入って行きますから、
かなり細い農道でも舗装されていることがしばしばです。
そのたびにがっかりするのですが、
今回ばかりは大丈夫でした。
その辺りは段丘になっていて、
小道の片側には小さな畑、
反対側には小高い空き地、
奥には雑木林が繁っていました。
その入口に道祖神は佇んでいたのです。
その場所から私が得た印象は、
「忘れられた世界」でした。
「時の忘れ物」と言い換えてもいいでしょう。
「よくぞこんな場所を残しておいてくれました」、そんな気持ちです。
その小さな一角は、
文明の進展とは全く縁がなく、
昔ながらの懐かしい風情をひっそりとたたえていたのです。
その風情に春の柔らかな陽射しはぴったりでした。
道祖神はまるでその場の守り神のようでした。
そんな風に感じてしまったので、
私にはその道を歩いて奥へ行くのはためらわれました。
誰も入ってはいけないような気がしたのです。
私が風景画を描く時は、
このような感覚が欠かせません。
それこそがモチーフ(動機)となるのです。
眼に見える風景を描いているようでいて、
実は心が強く感じたものを風景の姿を借りて表しているのです。
大事なことは風景から何を感じたかであって、
それが希薄であっては、
どれほど技法が冴えていても、
そういう絵は表面的で空虚な感じがしてしまいます。
風景との間に「出会い」の感覚がある時には、
描いていても本当に楽しいものです。
その感覚を永遠に残すには、
やはり時間がかかる絵がいいですね。
こうして20×20㎝というこの小さな絵が完成しました。
ところで、この場所を描くにあたって、
一つだけ私が変更したものがあります。
それは道祖神の位置です。
実際よりも小道寄りにしました。
その意図は皆さんが考えて下さい。
泉谷 淑夫