Gallery -文月-《夜の牛舎》

《夜の牛舎》

《夜の牛舎》


 

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「夜の牛舎」

今月の一枚は、1983年に描かれた《夜の牛舎》です。

33年も前の作品で、
身近な夏の宵の光景がモチーフです。
この絵を見た人曰く、
「トトロが出てきそうですね」。

こんな風景を「身近」と言ったのは、
実際、この絵に描かれた大きな牛舎のそばで
暮していたことがあるからなのです。
そこで今回は素敵な田舎暮らしの話をしましょう。

私が岡山大学に赴任する前に住んでいたのは、
神奈川県伊勢原市にある上粕屋という田舎です。
結婚して5年ほどは実家で仮住まいをしていたのですが、
いよいよ家を出ることになり、
土地を探していたところ、
家内が不動産屋から紹介されたという物件を見てほしいと言うので、
早速二人で見に行きました。

そこは幹線道路から脇道に入り、
ひなびた神社の石段を横眼で見ながら通り抜けた行き止まりにあり、
集落のいちばん端に位置しているので、
目の前には豊かな自然の景観が開けていました。
左手に小高い段丘、
右手に蛇行する河、
中央に広々とした畑、
河に沿って細い遊歩道、
視界の中心に形の整った樹木が立っていました。
その丘を背に立っていたのが、この大きな牛舎だったのです。

私はそこを一目見て気に入りました。
私には左手の丘の景観がワイエスの世界に、
右手の河の景観がコンスタブルの世界に、
そして中央の樹はフリードリヒの世界に思えました。

大きな牛舎の佇まいも気に入りました。
とにかく創作意欲が刺激されたのです。
思い悩むことなく、
ここに住みたいと決意しました。
同行した家内もあきれるほどの即決です。
ここに住んで、
この景色を何枚も絵にしてみたいという純粋な気持ちでした。

私の買った土地は、
牛舎のすぐそばの調整区域で、
そこに2階建の新居を建てました。
設計はすべて自分でやり、
小さいけれど念願のアトリエ兼書斎も造りました。
家内と共稼ぎとはいえ、
私はその時28歳でしたから、
大借金をしての普請でした。
それでも気に入った土地に、
自分好みの家を建てたのですから、
これ以上の幸せはありません。
家を建てたことのある人なら誰でもわかると思いますが、
とにかく建設現場に何度も足を運び、
イメージを膨らませて、
完成までの日々を楽しんだものでした。

そして住んでみると、
2階の窓から見える風景は壮観で、
私はそこを
「伊勢原の北海道」と命名したのです。
牛舎の持ち主は2羽の孔雀を放し飼いにしていて、
我が家の庭は彼らの格好の遊び場でした。

ところでここまで読んできて、
疑問を持たれた人もいるのではないでしょうか。
田舎暮らしを好むかどうかは別として、
「牛舎のそばに住居を建てるのはどうなの?」という疑問です。
つまり、
「牛舎のそばだったら、強烈な臭いがするんじゃないの!」という心配です。

普通の人だったら一番に考えそうなこのことを、
私たち夫婦は気にも留めなかったのです。
似た者夫婦とでも呼べばよいのでしょうか(笑)。
本当に私たちは「夢を追いかけることに夢中」なのです。
「非常識」と言ってもいいでしょう。
私はいつも絵のことばかり考えていて、
家内もそんな私の夢を応援しているのです。

実は牛舎の臭いのことに気付いたのは、
ずっと後のことです。
ということは住んでいた時にほとんど
臭いで悩まされることはなかったということです。
共稼ぎですから、
平日の昼間はほとんど家にはいなかったとはいえ、
休日や夏休みもあったわけですから、
臭ければ、記憶に残るはずです。
実際、牛舎から少し離れたところで暮していた隣人は、
臭いのことを言っていましたから、
牛舎の臭いは確かにしたのです。
しかし私の家は牛舎の懐のような場所だったので、
風向きの関係で臭わなかったのかもしれません。

とにもかくにも13年間、
私はそんなことに悩まされることなく、
この素晴らしい場所を何枚もの絵に描きとめました。
牛舎のある風景だけでも10点は描いたでしょうか。
その内の1点が、
新居に移って2年後に描いた《夜の牛舎》です。

この光景は勤務が遅くなって家に帰り着いた時に、
何度も目にしたものです。
夏は陽が長いので、
まだ明るさの残っている宵に昇る月は、
牛舎の窓明かりと相まって、
いつも私をロマンチックな感興に誘ってくれました。
それは、
豊かな自然とつつましい人間の営みが調和するところにしか生まれ得ない
「幸福な静けさ」のような気がしたものです。

この絵は私のお気に入りとなり、
横浜国大の附属中に勤務していた頃は、
準備室の壁を飾り、
訪れる人たちとのコミュニケーションに大いに役立ってくれました。

泉谷 淑夫

 

 

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